1. イントロダクション:デジタルと税制が交差する2026年の確定申告
2026年(令和8年)を迎え、海外で働く日本人リモートワーカーを取り巻く税務環境は大きな変化の時を迎えています。2025年分の所得税確定申告(2026年2月16日〜3月16日提出)においては、例年以上の注意が必要です。
具体的には、「年収の壁」に関する改正、マイナンバー制度の国外利用開始、そして国際的な課税ルールの厳格化など、実務に直結する重要な変更点が重なっているためです。
本稿では、前回の「基礎編」で触れた概念をさらに深掘りし、今まさに確定申告シーズンを迎えている海外在住者に向けて、具体的かつ実践的な「手続き」を徹底解説します。
特に、本稿を執筆している2026年1月現在、日本国内では「103万円の壁」から「160万円」への移行が現実のものとなり、実務現場にも影響が出始めています。「手取り」と「法的安全性」を守るためのバイブルとして活用してください。
2. 2025年分(令和7年分)税制改正の全貌と実務影響
確定申告書を作成する前に、まず理解しなければならないのは「ゲームのルール」の変化です。2025年分の所得計算には、歴史的な改正が適用されます。これを理解せずに従来の感覚で申告を行えば、過大納付や申告漏れのリスクに直結します。
2.1 「103万円の壁」の崩壊と「160万円ライン」の出現
長らく日本の税制を支配してきた「103万円の壁」は、2025年分の申告において事実上消滅しました。これは、インフレ対応と労働供給の制約解除を目的とした「令和7年度税制改正」によるものです。
2.1.1 基礎控除と給与所得控除の大幅改定
2025年(令和7年)分所得税において、非課税ラインは以下のように再設定されました。
| 項目 | 改正前(〜令和6年) | 改正後(令和7年分〜) |
|---|---|---|
| 基礎控除 | 48万円 | 95万円 |
| 給与所得控除 (最低額) |
55万円 | 65万円 |
| 非課税ライン合計 | 103万円 | 160万円 |
この変更は、海外在住のリモートワーカーにとって何を意味するのでしょうか。
- 日本国内源泉所得の非課税枠拡大:非居住者であっても、日本国内にある資産の運用益や、恒久的施設(PE)に関連する事業所得など、総合課税の対象となる所得がある場合、この基礎控除「95万円」が適用される可能性があります(※非居住者の基礎控除適用には制限があるため、後述の「居住者判定」との兼ね合いが極めて重要です)。
- 配偶者・扶養親族の所得要件緩和:あなたが日本で働く配偶者を扶養に入れている場合、配偶者の年収が160万円以下であれば、配偶者控除(または配偶者特別控除の満額)を受けられる可能性が高まりました。これは、海外に同行している配偶者が現地でリモートワークを行い、少額の日本円収入を得ているケースなどで有利に働きます。
2.1.2 第二次・第三次の波及効果(インサイト)
この控除額引き上げは、単に「税金が安くなる」だけではありません。
- 海外での税額控除への影響:日本での納税額が減少(またはゼロに)なることで、居住地国(例:アメリカ、タイ)での確定申告時に「外国税額控除(Foreign Tax Credit)」として差し引ける金額が減ります。結果として、居住地国での納税額が増える可能性があり、トータルの税負担が変わらない、あるいは居住地国の税率が高い場合は負担増になる「風船効果」が発生し得ます。
- 社会保険の壁との乖離:所得税の壁は160万円に上がりましたが、社会保険の壁(106万円・130万円)の議論は別軸で進んでおり、2026年10月には106万円の壁が撤廃される予定です。税金はかからないが社会保険料は取られる、という「ねじれ現象」が2025年分では顕著になります。
2.2 扶養控除制度の厳格化と「国外居住親族」
海外で生活する日本人にとって、日本に残した両親や、海外へ同行した子供の扶養控除は大きな節税ポイントでした。しかし、この分野も2025年・2026年にかけて厳格化が進んでいます。
令和8年(2026年)1月以後の給与等から、扶養親族の所得要件が変更されますが、令和7年(2025年)分においても、定額減税の適用判定などで所得要件の確認が不可欠です。
2.3 定額減税の「精算」プロセス
2024年(令和6年)に実施された定額減税(本人3万円+扶養親族1人につき3万円)は、2025年(令和7年)の申告においても重要なトピックです。
- 給与所得者の未済分:2024年の途中で出国し、年末調整を受けられなかった人は、定額減税の恩恵をフルに受けていない可能性があります。2025年の確定申告(または準確定申告の更正の請求)を通じて、控除しきれなかった減税分を還付金として受け取ることができます。
- 住民税の定額減税(1万円):こちらは令和6年度(2024年度)の住民税から控除されていますが、出国によって住民税の課税関係が消滅した場合の取り扱いは自治体によって異なります。
3. 「居住者」か「非居住者」か:手続きを分かつ分水嶺
手続き論に入る前に、あなたの法的な立ち位置を確定させる必要があります。ここを誤ると、すべての申告が無効、あるいは脱税行為とみなされる危険性があります。
3.1 住所(Domicile)と居所(Residence)の深層
日本の所得税法は、「住所」の有無で居住者を判定します。「住所」とは「生活の本拠」を指し、単に住民票があるかどうかだけでなく、滞在日数、職業、資産の所在地、親族の居住状況などを総合的に勘案して判定されます(実質主義)。
リモートワーカー特有のグレーゾーン
「海外を転々とするデジタルノマド」の場合、特定の国に「住所」がないとみなされることがあります。この場合、日本の税務当局は「日本に居所がある(または直近まであった)」ことを根拠に、日本居住者として全世界所得への課税を主張するケースが増えています。特に、住民票を抜かずに(あるいは実家のままにして)海外に出ている場合、税務署は「一時的な出張・旅行」と認定し、居住者課税を行うのが通例です。
3.2 2025年版・判定フローチャート
居住者(Resident):
日本国内に「住所」がある、または現在まで引き続いて1年以上「居所」がある。
→ 義務:全世界所得(日本国内+海外)について日本で確定申告が必要。
非居住者(Non-Resident):
居住者以外の個人。
→ 義務:「国内源泉所得(Domestic Source Income)」のみ、日本で課税される(多くは源泉分離課税で完結するが、確定申告が必要な場合もある)。
3.3 納税管理人制度の現状
従来、非居住者が確定申告を行うには「納税管理人」の選任が必須でした。しかし、後述するマイナンバーカードの国外利用解禁により、本人が海外から直接e-Taxで申告する場合、納税管理人は必ずしも必要ではなくなりました。
ただし、税務署からの物理的な郵便物(税務調査の通知など)を受け取る窓口としては依然として有用であり、完全に廃止されたわけではありません。e-Taxを利用しない場合や、複雑な税務処理を税理士に丸投げしたい場合は、引き続き納税管理人(通常は税理士や親族)を選任することが推奨されます。
4. デジタル・プロシージャ:マイナンバーカードとe-Taxの革命
2024年5月27日、デジタル庁と総務省によるシステム改修が完了し、海外在住者の行政手続きは劇的に進化しました。これが2025年分申告の「手続き編」における最大のハイライトです。
4.1 国外転出者向けマイナンバーカードの概要
かつて、海外転出届を提出するとマイナンバーカードは失効・返納義務がありました。しかし現在は「国外転出者向けマイナンバーカード」として継続利用・新規発行が可能です。
- 継続利用:転出届を出す際に、窓口で「継続利用」の手続きを行えば、海外でも有効なカードとして保持できる。
- 電子証明書:海外からでも「署名用電子証明書」「利用者証明用電子証明書」の更新・発行が可能。
4.2 e-Taxによる「完全非対面」申告の実装
この制度改正により、海外の自宅にいながら以下のフローで確定申告が完結します。
- ログイン:マイナポータル経由、またはe-Taxソフト(WEB版)へ直接アクセス。
- 認証:スマートフォン(マイナポータルアプリ)またはICカードリーダライタでマイナンバーカードを読み取る。
- 作成・送信:確定申告書等作成コーナーでデータを入力し、電子署名を付与して送信。
- 納税・還付:ダイレクト納付(日本の銀行口座引き落とし)や、公金受取口座への還付金振込。
技術的要件と注意点
スマートフォン:海外で購入したAndroid端末の一部は、FeliCa(NFC Type-F)に対応しておらず、マイナンバーカードを読み取れない場合があります。iPhone(iOS 13以降)は比較的グローバルで対応していますが、確実性を期すなら日本で購入した端末、あるいはソニー製「PaSoRi」等のUSB接続ICカードリーダライタを用意すべきです。
VPNの必要性:通常、海外IPアドレスからのアクセスは遮断されませんが、セキュリティアップデート等により一時的に制限される可能性があります。その場合、日本のVPNサーバーを経由することで接続が安定します(※公式には推奨されていませんが、実務上の裏技として知られています)。
5. 実践:ケース別・確定申告手続きステップ(2026年提出版)
ここからは、読者の状況を3つの主要シナリオに分類し、具体的な手続き手順を解説します。
【CASE A】2025年の途中で出国した人(「準確定申告」と「確定申告」のハイブリッド)
最も多いのが、2025年の1月から12月の間に日本を離れたケースです。
- 手順1:出国時の処理(準確定申告)
原則として、出国日までに「準確定申告」を行い、その時点までの所得税を精算する必要があります。しかし、納税管理人を選任して届け出ている場合は、翌年(2026年)の確定申告時期にまとめて行うことが可能です。 - 手順2:確定申告書の作成(2026年2-3月)
1月1日から出国日までの「居住者期間の所得」と、出国日から12月31日までの「非居住者期間の国内源泉所得」を合算して申告します。
・居住者期間:全世界所得が対象。
・非居住者期間:日本国内の不動産所得などが対象(海外での給与は対象外)。
・控除の適用:基礎控除(95万円)、配偶者控除、扶養控除などは、居住者期間の状況に基づいて判定されますが、要件を満たせば全額控除可能です(月割計算はしません)。
・定額減税の精算:出国時に年末調整を受けられなかった場合、確定申告書の「定額減税額」の欄で計算し、控除しきれない分は還付されます。
【CASE B】1月1日時点で海外居住の「非居住者」(日本国内源泉所得あり)
日本のクライアントから報酬を得ているフリーランス等が該当します。
課税関係の整理
リモートワークによる業務委託報酬(プログラミング、デザイン、コンサルティング等)は、「役務の提供地」が海外であれば、原則として日本国内源泉所得には該当しません。つまり、日本の所得税はかからず、確定申告も不要です。しかし、以下の場合は例外的に「国内源泉所得」となり、20.42%の源泉徴収がされます。
- 役員報酬:日本法人の役員として受け取る報酬(勤務実態が海外でも、内国法人の役員報酬は国内源泉とみなされる場合が多い)。
- 著作権使用料:デザインや執筆物の著作権を譲渡・使用許諾する場合。
- 不動産所得:日本にある持ち家を賃貸に出している場合。
手順:還付申告の実行
多くの場合、日本のクライアントは「念のため」20.42%を源泉徴収して支払ってきます。これが本来課税されるべきでない所得(国外での業務委託)であった場合、または経費を差し引けば税額が下がる場合、確定申告(還付申告)を行うことで払いすぎた税金を取り戻せます。
・e-Taxでの選択:「非居住者」用の申告メニューを選択。
・必要書類:支払調書、経費の領収書(データ)、租税条約に関する届出書の控え(あれば)。
【CASE C】住民票を残したままの「居住者扱い」リモートワーカー
会社の方針や個人の選択で住民票を残している場合、税務上は完全に「日本居住者」です。
- 手順:全世界所得の申告
海外での副業:現地で得たアルバイト代や、海外の銀行利子、株式配当もすべて日本で申告義務があります。 - 二重課税の排除:現地でも税金を払っている場合、「外国税額控除」を使って日本の税金から差し引きます。
- 住民税の納付:2026年6月から、前年(2025年)の所得に基づく住民税の通知が日本の住所(実家等)に届きます。代理人に納付を依頼するか、口座振替を設定しておく必要があります。定額減税(住民税分1万円)は自動的に適用されます。
6. 国別リスク分析:タイ・シンガポールの罠
2025年・2026年は、人気滞在国側の税制も激変しています。日本の申告とセットで考えなければ、思わぬ落とし穴に嵌ります。
6.1 タイ:最強の「持ち込み課税」ルールの変更
タイはこれまで、海外で稼いだ金を「その年のうちにタイに持ち込まなければ非課税」というルール(Remittance Rule)を採用しており、多くのノマドがこれを利用して無税生活を送っていました。しかし、2024年1月1日以降、「いつ稼いだかにかかわらず、タイに持ち込んだ時点で課税する」という新解釈が適用されています。
【2026年申告へのインサイト】
あなたが日本の確定申告で「非居住者」として申告し(日本で納税せず)、その資金をタイに送金して生活している場合、タイ側で満額の個人所得税(最高35%)が課されるリスクがあります。
対策:日本で「居住者」として納税し、その納税証明書をもってタイでの確定申告時に「外国税額控除」を申請することで、タイでの納税額を圧縮する方法が考えられます。日タイ租税条約の理解が不可欠です。
6.2 シンガポール:ビザ更新と納税証明
シンガポールでは、就労ビザ(EP)の更新要件に「COMPASS」というポイント制度が導入され、2025年から完全運用されています。ここでは「個人の給与額」が得点源となりますが、その証明として日本の確定申告書(所得証明)が極めて重要になります。日本で過度な節税をして所得を低く申告していると、シンガポールのビザ更新基準を満たせず、強制帰国となるリスクがあります。「節税」と「ビザ維持」のトレードオフが、かつてないほどシビアになっています。
7. 2026年提出に向けた具体的チェックリスト
最後に、今すぐ着手すべきアクションアイテムを整理します。
7.1 デジタル環境の整備(優先度:高)
- [ ] マイナンバーカードの有効性確認:電子証明書には有効期限(5年)があります。カード券面の期限とは異なるため、JPKI利用者ソフトで確認してください。
- [ ] ICカードリーダライタの購入:スマホの読み取りが不安定な場合に備え、PC直結のリーダー(Sony PaSoRi RC-S300等)を確保。
- [ ] マイナポータル連携:公金受取口座(日本の銀行口座)が正しく登録されているか確認。
7.2 書類の収集(優先度:中)
- [ ] 源泉徴収票・支払調書:令和7年分の原本(電子データ可)。
- [ ] クレジットカード明細:経費計上のため、私用と事業用を明確に区分。海外通貨建ての経費は、決済日の仲値(TTM)で円換算した一覧表を作成。
- [ ] 渡航記録:パスポートのスタンプやeチケットの履歴から、正確な「国内滞在日数」を算出。1日でもズレると居住者判定が変わる可能性があります。
7.3 資金計画(優先度:中)
- [ ] 納税資金のプール:3月15日までに一括納付が必要です(振替納税の場合は4月中旬)。
- [ ] 予定納税の減額申請:前年の所得が多かった場合、多額の予定納税通知が来ている可能性があります。出国や減収により納税見込み額が減る場合は、減額申請書を提出してください。
8. 高度な税務戦略:外国税額控除と租税条約の活用
手続きの枠を超え、より戦略的な視点を提供します。
8.1 外国税額控除(Foreign Tax Credit)のメカニズム
二重課税を防ぐための最強のツールです。「日本の税金」と「海外の税金」の両方を払った場合、一定の限度額(日本の所得税額 × 国外所得 ÷ 全世界所得)の範囲内で、海外で払った税金を日本の税金から差し引けます。
注意点:居住地国での確定申告書、納税証明書、その日本語訳が必要です。これらを揃える手間は膨大ですが、金額が大きい場合は必須の手続きです。
8.2 租税条約に関する届出書(Form 3)
あなたが非居住者で、日本のクライアントから報酬を受け取る際、日本と居住国との間に租税条約があれば、源泉徴収税率(通常20.42%)を10%や0%に減免できます。
手続き:支払日の前日までに、「租税条約に関する届出書」を支払者(クライアント)を経由して日本の税務署に提出します。確定申告で取り戻すよりも、キャッシュフロー(手取り)が即座に改善するため、最も推奨される方法です。
9. 結論:コンプライアンスこそが自由へのパスポート
2026年の確定申告は、日本の税制が「160万円の壁」という新たなステージに移行し、同時にデジタル手続きが国境を越えた最初の本格的なシーズンです。「海外にいればバレない」「適当に申告しておけばいい」という時代は、マイナンバーとCRS(共通報告基準)の包囲網によって完全に終わりました。
しかし、それは悲観すべきことではありません。透明性の高い申告を行うことは、ビザの安定、資産の保全、そして将来的な日本帰国時の信用力に直結します。本レポートで解説した「160万円の控除枠活用」や「e-Taxによる自立申告」を駆使すれば、コストを抑えつつ、適正な納税を実現できます。
今すぐマイナンバーカードを手に取り、ポータルサイトへログインすることから始めてください。それが、国境なき自由な働き方を守るための第一歩です。


